翌日も敬太郎は西谷の丘に足を向けた。田中翁の言葉が胸の内で反響している。時を待つということ、土を耕すということ。その意味を少しでも理解したいと思った。
田んぼを見下ろすベンチに腰を下ろしていると、坂道を上がってくる足音が聞こえた。振り返ると、制服姿の女子高生が息を弾ませながら現れた。
「あ、すみません。誰かいるとは思わなくて」
「いえいえ、気にしないでください」
敬太郎は軽く会釈した。少女は迷うような素振りを見せたが、やがて隣のベンチに座った。
「ここ、静かでいいですよね」
「そうですね。僕も最近知った場所なんです」
沈黙が流れる。しかしそれは気まずいものではなく、武庫川のせせらぎと鳥の声に包まれた、心地よい静寂だった。
「私、美咲といいます。宝塚西高の三年生です」
「橋本です。関学の学生です」
美咲と名乗った少女は、畑を見つめながら小さくため息をついた。
「進路のことで悩んでて。両親は大学進学を望んでいるんですけど、私はここみたいな場所で農業をやってみたいんです」
敬太郎は驚いた。自分と同じように迷いを抱えた人間が、こんな身近にいるとは。
「農業を」
「変ですよね。でも、この前田中さんにお話を伺って。土を耕して、種を蒔いて、時間をかけて育てる。そういう生き方に憧れるんです」
美咲の瞳には、確かな光が宿っていた。
「変じゃないです。僕も進路で悩んでいるから、よく分かる」
「そうなんですか」
二人は互いの心境を語り合った。敬太郎の文学への憧れと現実への不安。美咲の農業への思いと周囲との葛藤。
陽は高く昇り、西谷の谷間に春の光がさんざんと降り注いでいる。
「また明日も来ます」
美咲の声に、敬太郎は頷いた。一人ではない。そのことが、何より心強かった。
