春風の道標 〜西谷の丘にて〜 #8-4

三日目の朝、敬太郎がいつものベンチに向かうと、田中翁が美咲と立ち話をしているのが見えた。

「おお、橋本くん。ちょうどよいところに」

翁は手を上げて敬太郎を招いた。

「今日は里山を歩いてみないか。この娘さんも一緒にな」

美咲は少し照れたような表情を浮かべている。

「お邪魔でなければ」

「とんでもない。一人より二人、二人より三人の方がよい話もあるものじゃ」

三人は畑の奥へと続く小径を歩いた。桜の古木が点在し、足元には菫やたんぽぽが顔をのぞかせている。翁の足取りは確かで、まるで土地の一部のように自然と調和していた。

「この里山はな、何百年もの間、人の手で守られてきた」

翁は立ち止まり、雑木林を見上げた。

「昔の人は木を切り、炭を焼き、畑を耕した。自然を壊すのではなく、自然と共に生きることを知っていたのじゃ」

美咲が熱心に頷く。敬太郎もまた、翁の言葉の奥にある何かを掴もうと耳を澄ませていた。

「橋本くん、君の文学というものも同じではないかな」

翁は振り返った。

「人の心を耕し、言葉という種を蒔く。それには時間がかかる。しかし必ず芽を出すものじゃ」

敬太郎の胸に、温かいものが宿った。文学と現実。その二つが対立するものではなく、土と種のような関係なのかもしれない。

「田中さん」

美咲が口を開いた。

「私、やっぱり農業をやりたいです。時間がかかってもいい。この土地で学びたいんです」

翁は深く頷いた。

「よろしい。この土地には君たちのような若い力が必要じゃ」

風が頬を撫でていく。西谷の里山が、二人の迷いを静かに受け止めているようだった。