その日の午後、空模様が怪しくなった。朝まで穏やかだった青空に黒い雲が立ち込め、風が急に強さを増している。
「これは一雨来そうですな」
田中老人が空を見上げて呟いた。敬太郎も同じように空を仰ぐと、確かに雲の動きが尋常ではない。
「せっかく出た芽が心配です」
美咲が花壇を見つめて言う。昨日顔を出したばかりのチューリップの芽は、まだ頼りなげで、強い雨に打たれたら折れてしまいそうだ。
やがて雨粒がぽつりぽつりと落ち始めた。それが次第に激しくなり、ついには本格的な春の嵐となった。
「これはいかん!」
田中老人が立ち上がる。風に煽られた雨が横殴りに降り注ぎ、小さな芽たちを容赦なく叩いている。
「何かで覆わなければ」
敬太郎は咄嗟に自分のジャケットを脱いで花壇に被せようとしたが、風で飛ばされてしまう。美咲が慌てて拾い上げる間に、芽の何本かが折れ曲がっていた。
「板を持ってきます」
田中老人が小走りに去る。その間も雨は激しさを増すばかりだ。敬太郎は傘も忘れて花壇に屈み込み、手で芽を覆おうとした。
「敬太郎さん、濡れてしまいます」
「構わない」
なぜだかわからないが、この小さな命を守らずにはいられなかった。雨に打たれながら必死に芽を庇う自分の姿が、妙に自然に感じられる。
やがて田中老人が透明なプラスチック板を抱えて戻ってきた。三人で協力して芽の上に覆いを作ると、ようやく一息つけた。
「ありがとう、敬太郎君」
美咲の言葉に、敬太郎は胸の奥で何かが動くのを感じた。文学を愛する心も、こうして土にまみれる手も、どちらも自分なのだ。
嵐が去った後の空に、薄い虹が架かっていた。