花の地図には続きがある 〜西谷、春の里山に消えた記録〜 #9-1

バスが武田尾を過ぎたあたりから、車窓の景色は急に深くなった。

民家の数が減り、代わりに杉と竹が道の両側から迫ってくる。渉はシートに背をもたせかけ、膝の上に置いたカメラバッグをぼんやりと見つめた。レンズを向けたい、と思う気持ちがほとんど消えて久しかった。それでも今日ここにいるのは、たぶん、他に行くべき場所を思いつかなかったからだ。

上佐曽利のバス停に降り立ったのは、午後三時を少し回った頃だった。

バスが去ると、あたりは静まりかえった。正しい意味での静けさ、つまり音が欠如しているのではなく、音がひとつひとつ丁寧に置かれているような静けさだった。水の流れる音。遠くの鳥。そして風が棚田の稲わらを撫でる、かさかさという乾いた息。

田んぼの畦に気づいたのは、そのときだった。

白い。

言葉が思考より先に来た。水仙の群落が、畦道に沿って途切れることなく続いていた。手元の地図を開く。印刷された線と色の中に、その場所を示すものは何もない。

渉はしゃがんで、一輪の水仙に顔を近づけた。六枚の花弁が、傾いた陽光の中でひっそりと自分の役割を果たしていた。白は、蛍光灯の白ではなく、もっと奥行きのある、透けるような白だった。

麻田の白いシャツに、似ていた。

去年の春、病院のベッドで麻田が最後に着ていた、あのシャツの白に。

渉はカメラバッグのチャックに手をかけた。六ヶ月ぶりに、指が迷わなかった。ファインダーを覗くと、世界がいつもより少しだけ正直になった。水仙はそこにあった。地図にも記録にもない場所で、ただ咲いていた。

「誰が植えたんだろう」

声に出して言ってから、渉は自分が久しぶりに独り言を喋ったことに気づいた。

シャッターを、切った。