波豆川の水音が、夜明けとともに変わる。
渉はその変化に気づいて目を覚ました。音が高くなるのではない。むしろ静かになる。川が一瞬、息を吸い込むような間ができる。その隙間に、桜の花びらが一枚ずつ落ちていく。
一本桜は、川沿いの土手に立っていた。
樹齢がどれくらいなのか渉にはわからなかったが、それほど問題ではないと思った。木には、人間の都合で決められる年齢とは別の時間が流れている。麻田がそれを教えてくれた。病院のベッドの上で、窓の外の木を見ながら。
「この木、何年生きてると思う?」
麻田が最後の春に言った言葉を、渉はまだ手放せていなかった。
寄合は川沿いの古い農家で開かれていた。軒先にムシロを敷いて、七、八人の老人たちが輪になっていた。春江が連れてきてくれた。
「植物の写真を撮っとる人や」と春江が言うと、老人たちは渉を特に珍しがる様子もなく、ただ湯呑みを一つ増やした。
タナカ先生の名が出たのは、話が一時間ほど続いたあとのことだった。
「西谷小学校に来とったな、田中孝平いう先生が」と一人の老爺が言った。「春になると子どもらを連れて山に入って、花の地図を作っとった」
「几帳面な字を書く人やった」と別の老人が続けた。「何でも記録にしとった」
「消えた?」と渉は聞いた。
老爺はゆっくりと湯呑みを置いた。
「消えた、いうのが正しいかどうかわからんけどな」と彼は言った。「ある春の朝、学校に来んかった。それだけのことや」
それだけのことが、三十年経っても誰かの記憶に残っている。渉はその重さを、静かに計った。
川面を花びらが流れた。渉はカメラを構えた。
シャッターを切りながら、手帳のあの余白が頭に浮かんだ。切り取られたページ。誰かが消したかった場所。タナカ先生が記録し、誰かが奪った地図の続き。
花びらは川に吸い込まれ、もう戻らなかった。
