花の地図には続きがある 〜西谷、春の里山に消えた記録〜 #9-5

義則から聞いた名前は、奥田春江といった。

義則が手帳のページを預けた相手が、彼女だった。「わしは物を隠すのが下手な男や」と義則は言った。「春江さんの方が、よっぽど信用できる」

奥田家は、西谷の中心から少し外れた場所にあった。武田尾廃線跡の入り口近く、古い石垣の上に建った農家だ。庭に白梅が一本だけ残っていて、もう盛りは過ぎていた。

春江は八十代の半ばで、義則よりさらに小柄だった。渉が田村義則の名前を出すと、彼女は玄関先で一度だけ目を閉じた。まるで古い記憶に鍵を差し込むような仕草で。

「上がりなさい」

土間は暗く、冷たかった。古い神棚が奥の壁に据えてあり、その裏に春江が手を伸ばすと、角の擦れた封筒が出てきた。

「誰かが来るまで、ここが一番ええと思ってた」

封筒の中には、手帳から切り取られたページが数枚と、小さく折りたたまれた手紙があった。

渉は手紙を開いた。

「花の記憶は誰にも奪えない。地図を完成させてくれる人を待っている」

インクは褪せていたが、文字は真っ直ぐだった。急いで書いた字ではなかった。時間をかけて、一文字ずつ選んだ字だった。

ページには、山の名前と数字の羅列が並んでいた。座標だ、と渉はすぐに気づいた。現代の地図アプリに打ち込めば、場所が割り出せる。

その夜、宿に戻って渉は作業を始めた。

点が一つ、また一つ、地図の上に浮かんだ。

リビングウイルのような記録だ、と渉は思った。自分が消えた後も、花が咲き続けることへの信頼を、誰かに手渡そうとした記録。

窓の外に里山の稜線が見えた。夜の空気の中で、その輪郭は妙にくっきりしていた。

渉は画面から目を上げ、しばらくその稜線を見ていた。

亮がいたら、なんと言っただろう、と思った。きっと何も言わず、ただ並んで同じ稜線を見たはずだった。