春江が小瓶を差し出したのは、朝の光がまだ斜めだった頃だった。
「先生が残してったんです。いつか誰かが使うだろうって」
小瓶の中で、種は静かに眠っていた。在来水仙の種。それが何十年をかけて、一人の老人の手から老人の手へ、ここまで届いていた。
渉はしばらく、その小瓶を手のひらの上に乗せたまま動けなかった。
軽かった。でも今度は、ちゃんと軽かった。
三人で丘の斜面を登った。武田庄の棚田を越えたあたり、残土に覆われた造成地の端に、かろうじて手つかずの一角が残っていた。義則が「ここや」と言った。それだけだった。
渉はカメラをリュックに仕舞ったまま、膝をついた。
土は冷たかった。春の冷たさで、冬の冷たさではなかった。指で小さな穴を作り、種を落とす。覆う。また掘る。また落とす。
「上手いもんやな」と義則が言った。
「植物写真家ですから」と渉は答えた。「撮るばかりで、触れたのは初めてですけど」
春江が笑った。義則も笑った。渉も、少し笑った。
風が吹いた。西谷の里山から吹き降ろす、まだ湿った春の風だった。亮が好きだったかもしれない。あるいは嫌いだったかもしれない。もう確かめる方法はなかったし、それでもよかった。
作業が終わると、渉はリュックから花の地図を取り出した。タナカ先生が残した、あの手書きの地図だ。
最後の余白に、渉は自分のペンで一行書き加えた。
「次の春、ここで」
それだけだった。座標も、花の名前もなかった。
渉は地図を畳んで、胸のポケットにしまった。ファインダーを覗かなくても、目の前に西谷の春が広がっていた。見えた。ちゃんと見えた。
