田中光男は、波豆川の岸辺で、真剣に水をすくっていた。
「pH測定、よし。溶存酸素量も……」
夢中になって測定器をのぞき込んでいたら、足を滑らせて、ざぶん。
「うわあああああ!」
六月の川の水は、思ったより冷たくて、光男はあわあわと手足をばたつかせながら、なんとか岸に這い上がった。
「あらあら、どうしたんや」
振り返ると、川沿いの畑でトマトの手入れをしていたおじいちゃんが、心配そうに駆け寄ってきた。
「すみません、水質調査をしていて」
「びしょ濡れやがな。うちで着替えしていき」
おじいちゃんの家は、昔ながらの農家で、縁側に座らせてもらって着替えを待っていると、お茶とおせんべいを出してくれた。
「先生は蛍の研究してはるんやろう」
「はい。でも、なかなか難しくて」
「むかしなあ、この波豆川には蛍がようけおったんや」
おじいちゃんの目が、遠くを見るような優しさになった。
「夏の夜になると、川面が星空みたいになってな。子どもの頃は、蛍を追いかけて夜遅くまで遊んでたもんや」
「星空みたいに」
光男の胸が、ぽっと温かくなった。
「そんな光景が、本当にあったんですね」
「また戻ってくるかなあ」
「絶対に戻します」
光男は、濡れたカバンから、びしょびしょになったノートを取り出した。
「おじいちゃんの話、詳しく聞かせてください。川面の星空を、もう一度見せてもらいます」
おじいちゃんの顔に、嬉しそうな笑顔が広がった。
夕日が西谷の山々を染める中、光男の本格的な蛍復活作戦が、ついに始まろうとしていた。
