桐山信一郎は段ボール箱の中から、黄ばんだ地図を取り出した。父が三か月前に他界してから、遺品整理は進まないままだった。
地図は西谷地区の古いもので、武庫川の支流に赤いペンで印が付けられている。裏面には父の走り書きがあった。
「波豆川の約束を果たせなかった。信一郎、すまない」
信一郎の胸に、三十年前の記憶が蘇った。新聞記者として駆け出しだった頃、父もまた地方紙の記者として西谷の土地開発問題を追っていた。
「お前はまだ若い。この土地の闇を知らなくていい」
父はそう言って、信一郎を東京の大手新聞社へ送り出した。それが最後の長い会話だった。
地図の印は、確か蛍の名所だった波豆川の川筋に集中している。開発で今はどうなっているのだろう。
信一郎は箱の底から、もう一枚の紙片を見つけた。「平成六年七月十五日 川辺での密会 録音テープあり」という文字が震える字で記されている。
録音テープ。信一郎は慌てて箱を探ったが、見当たらない。
窓の外では、梅雨の雨が降り続いている。父が守ろうとした真実とは何だったのか。
信一郎は携帯電話を手に取り、宝塚市役所の番号を調べ始めた。三十年の時を経て、父の足跡を辿る時が来た。
西谷の緑深い谷間に、まだ蛍は舞っているのだろうか。
