信一郎は波豆川の上流で、水面に映る夕日を眺めていた。三日前から環境部会の活動に参加し、父の原稿を公表しない決断を固めていた。
「桐山さん、お疲れさまでした」
佐藤が声をかけた。今日は川底の清掃作業だった。
「いえ、こちらこそ。久しぶりに体を動かして気持ちよかった」
信一郎は汗を拭いながら答えた。
「実はお聞きしたいことがあるんです」
佐藤の表情が真剣になった。
「三十年前の開発計画について、何かご存知ですか。当時の新聞記事を探したんですが、詳しい報道が見つからなくて」
信一郎は一瞬息を止めた。
「父も記者でしたが、すべてを報じられるわけではありませんから」
「そうですね。でも、あの時代があったから今の活動があるんです」
夕闇が濃くなる中、川面に小さな光が舞った。
「あ!」
佐藤が指差した。
「蛍です!」
一匹、また一匹と、淡い光が宵闇に浮かんだ。
信一郎の胸に込み上げるものがあった。父が守ろうとした川に、兄が愛した自然に、命が戻ってきている。
「きれいですね」
「桐山さんのお父さんや兄さんも、きっとこの光を見たかったでしょうね」
佐藤の何気ない言葉が、信一郎の心を打った。
そうだ。二人が本当に望んだのは、この瞬間だったのかもしれない。
「僕も、この活動を続けたいと思います」
信一郎は蛍の光を見つめながら言った。
「東京に戻っても、時々こちらに来て手伝わせてもらえませんか」
「もちろんです。いつでも歓迎します」
蛍たちは静かに舞い続けていた。三十年の時を越えて、新しい約束が始まった夜だった。
