早朝の冷たい空気が頬を刺し、美咲は思わず身を震わせた。武庫川沿いを走るバスの窓から見える景色は、昨夜降った雪で真っ白に染まっている。
「西谷」のアナウンスが響くと、美咲は慌ててバッグを手に取った。降りるのは自分だけだった。
カーン、カーン、カーン。
どこからか鐘の音が響いてくる。まだ朝の5時だというのに、なんと力強い音だろう。
「あの、田中さんですか?」
振り返ると、作業着を着た50代くらいの男性が軽トラックから降りてきた。日焼けした顔には優しい笑顔が浮かんでいる。
「はい。今日からお世話になります」
美咲は深々と頭を下げた。
「山田です。梅脇牧場の。寒かったでしょう」
山田さんは美咲の荷物を軽々と持ち上げると、軽トラックの荷台に載せた。
「今の鐘の音は?」
「ああ、あれは搾乳の時間を知らせる鐘です。うちの牛たちも慣れたもので、鐘が鳴ると自然と搾乳舎の方に向かってくるんですよ」
軽トラックは雪道をゆっくりと進んでいく。道の両側には里山が連なり、その向こうには北摂の山々がうっすらと見えている。
「きれい…」
美咲は思わずつぶやいた。東京のビルに囲まれた生活では決して見ることのできない風景が広がっている。
「この時期の西谷はまた格別ですからね。雪化粧した山々と、雪に覆われた田んぼのコントラストが美しいんです」
軽トラックが坂を上がると、木造の建物が見えてきた。煙突からは白い煙がまっすぐ立ち上がっている。
「着きましたよ。まずは温かいものでも飲んで、それから牛たちに挨拶しましょう」
美咲は車から降りると、深呼吸した。冷たい空気の中に、かすかに牛の匂いと干し草の香りが混じっている。遠くからは牛の鳴き声も聞こえてくる。
「本当にここで働かせてもらえるのかな」
不安と期待が胸の中で混じり合っていた。でも、山田さんの温かい人柄と、この美しい雪景色が、疲れ切った心を少しずつ癒してくれるような気がした。
再び鐘の音が響く。今度は、その音が美咲にとって新しい生活の始まりを告げているように感じられた。