桜が子牛を産んでから一週間が過ぎた。雪はすっかり解け、西谷の山々に春の気配が漂い始めている。
美咲は毎朝の餌やりで、牛たちの微妙な変化に気づくようになっていた。
「おはよう、みんな」
牛舎に入ると、花音が真っ先に美咲のもとへ歩いてくる。甘えるように首を伸ばし、鼻先を美咲の手に押し付けた。
「花音は本当に人懐っこいのね」
美咲が頭を撫でると、花音は満足そうに目を細めた。
一方、奥の方にいる雷太は今朝も元気がない。餌にもあまり手をつけず、じっと立ったままでいる。
「山田さん、雷太の調子はどうですか?」
「昨日から少し気になってるんだ。熱は平熱だけど、いつもより大人しいような気がする」
美咲は雷太のそばに近づいた。普段なら警戒して距離を置く雷太が、今日は美咲を見つめたまま動こうとしない。
「どうしたの?」
美咲がそっと声をかけると、雷太は小さく鳴いた。いつもの力強い声ではなく、どこか寂しげな響きだった。
「雷太も甘えん坊なのかしら」
美咲が手を伸ばすと、雷太は初めて美咲の手のひらに鼻を寄せた。温かい鼻息が手のひらをくすぐる。
「おお、雷太が美咲さんに心を開いたな」
山田さんが驚いたように声を上げた。
「雷太は警戒心が強くて、なかなか人に懐かないんだ。でも美咲さんには特別な何かを感じてるのかもしれない」
美咲は雷太の首筋を優しく撫でた。固い筋肉の下に、温かい命の鼓動を感じる。
桜は相変わらず母性に満ちていた。生まれたばかりの子牛、希望と名付けられた小さな命を、常に気にかけている。美咲が近づくと、警戒するような表情を見せるが、それも我が子を守る母の本能だった。
「桜、お疲れさま。希望ちゃんは元気に育ってるわね」
桜は美咲を見つめ、短く鳴いた。それは感謝を表しているようにも聞こえた。
午後になると、牛たちはそれぞれに個性を発揮する。
太陽が牛舎に差し込むと、のんびり屋の大吉は必ず日向ぼっこを始める。半分目を閉じ、至福の表情を浮かべている。
活発な若牛の疾風は、他の牛とじゃれ合うのが好きだった。時には調子に乗りすぎて、山田さんに叱られることもある。
「それぞれに性格があるのね」
美咲がつぶやくと、山田さんがうなずいた。
「三十年この仕事をやってるが、同じ牛なんて一頭もいない。みんな違う顔を持ってる」
美咲は牛舎を見回した。十五頭の牛たちが、それぞれの時間を過ごしている。
東京にいた頃は、毎日が機械的な繰り返しだった。パソコンの画面と向き合い、数字と格闘し、人間関係さえもどこかよそよそしかった。
でもここでは違う。
牛たちは美咲の心を映し出す鏡のようだった。美咲が疲れている時は心配そうな目で見つめ、元気な時は一緒になって活発に動き回る。
「ありがとう、みんな」
美咲は小さくつぶやいた。
牛舎の外では、西谷の山々が夕日に染まり始めている。遠くで鳥のさえずりが響き、どこからか水の流れる音が聞こえてくる。
命と向き合う日々の中で、美咲自身の心も静かに癒されていくのを感じていた。