桜のつぼみが膨らみ始めた三月の午後、美咲の携帯電話が鳴った。
「田中さん、お疲れさまです。人事部の佐藤です」
東京の会社からの電話だった。美咲は牛舎から少し離れた場所で通話に応じた。
「休職期間がもうすぐ終了となりますが、復職のご準備はいかがでしょうか」
「はい、承知しております」
「それでは、来月初旬からの復帰ということでよろしいでしょうか」
美咲は一瞬言葉に詰まった。頭では分かっていたことなのに、実際に復職の話を聞くと胸が締め付けられる思いがした。
「はい、分かりました」
電話を切ると、美咲は長いため息をついた。
夕方の餌やりを終えた後、美咲は山田さんに復職のことを告げた。
「そうか、もうそんな時期になったのか」
山田さんは作業の手を止めて、遠くの山を見つめた。
「寂しくなるな。美咲さんがいてくれて、牛たちもずいぶん落ち着いてたのに」
「私こそ、本当にお世話になりました」
美咲の声は少し震えていた。
花音が美咲のそばにやって来て、いつものように甘えるように首を擦り寄せてきた。
「花音、私がいなくなっても、山田さんの言うことをちゃんと聞くのよ」
美咲が頭を撫でると、花音は寂しそうな目で美咲を見上げた。まるで美咲の心を読み取っているかのようだった。
雷太も奥からゆっくりと歩いて来た。最近は美咲に心を開き、毎日のように近づいて来るようになっていた。
「雷太も、体調に気をつけてね」
雷太は美咲の手のひらに温かい鼻を押し付けた。
桜は子牛の希望と一緒に、少し離れたところから美咲を見つめている。母子の絆の強さに、美咲はいつも心を打たれていた。
その夜、美咲は山田家の居間で晩ご飯をいただいた。
「美咲さんがいなくなったら、牛たちも寂しがるでしょうね」
奥さんがしみじみと言った。
「東京に戻っても、たまには西谷のことを思い出してくださいね」
「もちろんです。ここで過ごした時間は、私の宝物です」
美咲は窓の外を見た。西谷の山々が夜空に静かにそびえている。
東京に戻れば、また忙しい日々が始まる。満員電車に揺られ、パソコンの前で長時間働く毎日。
でもここで学んだことは決して忘れない。命と真摯に向き合うこと、自然のリズムに身を委ねること、そして何より、生きることの本当の意味。
美咲の心の中で、ある想いが静かに芽生え始めていた。