牛舎の扉を開けた瞬間、温かい空気と独特の匂いが美咲を包んだ。東京で嗅いだことのない、生き物の体温を感じさせる匂いだった。
「最初は驚くかもしれませんが、慣れれば大丈夫ですよ」
山田さんが柔らかく微笑みながら先に立って歩く。牛舎の中は薄暗く、仕切られたスペースの向こうに大きな影がいくつも見えた。
「モー」
低い鳴き声が響くと、美咲は思わず山田さんの後ろに隠れた。
「怖がらなくても大丈夫。この子たちは人間慣れしているから」
山田さんが手招きすると、茶色と白のまだら模様の牛が顔を向けてきた。想像していたよりもずっと大きく、美咲の胸は早鐘を打った。
「この子は花子です。うちの牧場で一番優しい子なんですよ」
「花子…」
美咲は恐る恐る近づいた。花子は大きな黒い瞳で美咲をじっと見つめている。
「手を出してみてください。ゆっくりと」
美咲は震える手を花子の方へ伸ばした。その時、花子が鼻息を「フー」と吹きかけてきた。温かくて湿った息が手のひらに触れる。
「あ…」
なぜか涙が込み上げてきた。こんなにも穏やかで温かい生き物の存在を、美咲は今まで知らずにいた。
「花子は去年の春に生まれたばかりです。まだお母さんになったことはありませんが、きっと良いお母さんになりますよ」
山田さんの声は優しさに満ちていた。
「みんなに名前があるんですね」
「もちろんです。太郎、次郎、桜、みどり…一頭一頭、違う性格を持っているんです」
美咲は牛舎を見回した。20頭ほどの牛たちがそれぞれの場所でくつろいでいる。ある牛は干し草を食べ、ある牛は仲間とじゃれ合っている。
「IT企業にいた時は、データや数字ばかり見ていました。でも、ここには…」
「生きているものがあります」
山田さんが美咲の言葉を引き取った。
「毎日世話をしていると、この子たちも家族みたいなものです。体調が悪い時はすぐに分かるし、元気な時は私たちも嬉しくなる」
花子が再び鼻息を吹きかけてきた。今度は美咲も怖くない。そっと花子の額に手を置くと、温かい体温が伝わってきた。
遠くで再び鐘の音が響く。搾乳の時間を告げる音だった。
「さあ、仕事を始めましょうか」
山田さんが作業着の袖をまくり上げる。美咲も深呼吸をして頷いた。
パソコンの画面では感じることのできない、命の重みがここにはあった。