農道の果て、杉木立の陰に、古い茅葺きの民家があった。
どこからか煙の匂いがした。焚き木と、何か甘いものが混じっている。
「迷うたか」
声は縁側から来た。
白髪の老人が、湯呑を両手で包んで座っていた。しわだらけの顔には笑みともとれぬ表情が浮かび、細い目が透矢をまっすぐに射た。
「藤堂と申します。よかったら上がりなさい」
断る理由が、見当たらなかった。
縁側の奥、土間に足を踏み入れた瞬間、透矢は息を呑んだ。
棚に、球根が並んでいた。
何十個——いや、もっとあるかもしれない。大小さまざまな球根が、新聞紙の上に整然と並べられている。そして一つひとつに、小さな和紙の名札が縛り付けられていた。
「ミサコ」「タロウ」「ふじ」——。
人の名前だった。
「チューリップと水仙じゃ」
老人、藤堂仙蔵が後ろから言った。「毎年、棚田の畦に植えておる。もう四十年になるかのう」
「あの……名前は」
「忘れたくない者の名前じゃよ」
仙蔵は透矢の隣に立ち、一つの球根をそっと手に取った。節くれた指が、まるで赤子を抱くように球根を包む。
「この花々はな、土の下で夢を見とるんじゃ。春が来るまで、ずっと夢の中で誰かのそばにおる」
透矢は黙って球根を見つめた。
水仙の匂いが、まだ鼻の奥に残っていた。あの畦道の、一輪の乱れもない白い花の列。咲いていたのか、見えていたのか、それすら今はわからない。
「花守り、というものを御存知ですか」
仙蔵の手が、止まった。
一瞬だけ。しかし確かに止まった。
老人はゆっくりと振り返り、透矢の顔を底のない目で見た。
「どこで聞いた」
「古い本の、余白に」
風が縁側を抜けた。名札がかすかに揺れ、紙の擦れる音が、奇妙に長く響いた。
