復職まで残り一週間となった朝、美咲は牛舎で搾乳作業をしながら、ふと手を止めた。
花音が美咲の足元に寄り添っている。雷太も近くで草を食んでいる。桜と希望は母子で並んで日向ぼっこをしていた。
この光景を見ていると、東京に戻ることが正しい選択なのかどうか、分からなくなってきた。
「山田さん」
美咲は作業を終えて、山田さんに声をかけた。
「実は、相談があるんです」
「なんだい?」
「もし可能であれば、西谷に残って働かせていただけませんか」
山田さんは驚いた表情を見せた。
「本当かい? でも東京の会社は?」
「リモートワークという制度があるんです。週に数日は東京に出社する必要がありますが、普段はパソコンがあれば仕事ができます」
美咲の声には確信が込められていた。
「牧場の仕事と両立できるかどうか分かりませんが、挑戦してみたいんです」
山田さんの顔に笑顔が広がった。
「それは嬉しいな! 牛たちも喜ぶよ」
花音が美咲の決意を聞いていたかのように、嬉しそうに鳴いた。
翌日、美咲は会社に電話をかけた。
「リモートワークでの復職をお願いしたいのですが」
「珍しいケースですが、検討してみましょう」
人事部の佐藤さんは意外にも前向きな反応を示した。
「IT企業としても、多様な働き方を推進していますから」
一週間後、美咲の新しい生活が始まった。午前中は牧場で働き、午後はパソコンに向かってシステム開発の仕事をする。
月に数回、東京に出張して会議に参加することもあった。しかし、生活の基盤は完全に西谷にあった。
四月の半ば、桜が満開になった頃、牧場に新しい子牛が生まれた。
「元気な雄だね」
山田さんが嬉しそうに言った。
「名前はどうしましょうか」
美咲が尋ねると、山田さんは笑った。
「美咲さんが付けてくれ」
美咲は小さな子牛を見つめた。桜の花びらが風に舞って、牧場全体を優しく包んでいる。
「春希はどうでしょうか。春の希望という意味で」
「いい名前だ」
夕方、美咲は牧場を見回した。花音、雷太、桜、希望、そして新しく生まれた春希。それぞれが自分のペースで生きている。
命をつなぐということは、こういうことなのかもしれない。毎日の小さな営みの積み重ねの中で、次の世代に想いを受け渡していく。
美咲の胸の奥で、静かな充実感が広がっていった。
西谷の山々が夕日に染まっている。美咲は深呼吸をして、新しい人生を歩き続けることを心に誓った。