夕暮れが波豆川を赤く染める頃、省吾はようやく携帯を手に取った。
画面に「拓也」の文字が光っている。着信履歴の中に、三日前のものがあった。
呼び出し音が三度鳴った。
「……親父?」
息子の声は、省吾が思っていたより近かった。
「ああ。孫に、会いに行きたい」
それだけを言った。言えた。
しばらく沈黙があった。川の瀬音が、遠くから届いてくる。
「……いつでもええよ」
拓也の声が、かすかに揺れた。
翌朝、省吾は夜明けとともに波豆川の畔へ出た。川沿いの柏の木の根元に、まだ使えそうな葉が数枚落ちていた。湿り気を帯びた葉を、一枚一枚丁寧に拾い上げる。来年のため、というわけでもない。ただ、そうしたかった。
公民館の前でハナに会った。
「お世話になりました」
省吾が頭を下げると、ハナは手を振った。
「なんもなんも。来年も一緒に作りましょ」
それだけだった。飾り気のない言葉が、静かに胸に落ちた。
西谷の山道をゆっくりと下りていく。ウグイスが鳴いている。棚田の水面が、朝の光を受けてやわらかく輝いていた。
袖に、まだ煙の匂いが残っていた。
柏もちを蒸したせいろの湯気。公民館の台所。破れた白い腹をのぞかせた餅。ハナの「食べてみい」という声。
三十年分の誇りが折れた日から、ずっと何かを閉じていた。それがようやく、すこしだけ開いた気がした。
山の端に、薄い雲がたなびいている。
省吾は立ち止まり、振り返った。波豆の稜線が、青くけぶっていた。
それから、また歩き出した。
