朝靄がまだ波豆川の水面に低く漂う頃、省吾は古い草履を突っかけて表へ出た。
眠れなかったわけではない。ただ、夜明けとともに目が開いてしまう。この歳になると、体が勝手に起き上がろうとする。大阪でもそうだった——店のある頃は、それが当たり前だった。
川沿いの細い道を、あてもなく歩いた。
雑木林の際に、昨日の老婆がいた。竹籠を脇に抱え、柏の若葉を一枚一枚手に取って眺めている。
省吾は会釈だけして通り過ぎようとした。
「あんた、昨日の」
低い、しかし芯のある声だった。
振り返ると、老婆はこちらをじっと見ていた。
「森本ハナや。あの家に入ったんやろ、多田さんとこの」
「……はい。孫です」
「そうか」
それだけ言って、ハナはまた葉に目を戻した。
省吾も黙って立っていた。去るきっかけを失ったまま。
「毎年やるんですか」と、気づけば口にしていた。
「五十年以上な。集落の女らと、端午の前に」
ハナの指が、迷いなく葉を選り分けていく。艶のあるもの、虫食いのないもの、程よい大きさのもの。
「形の揃ったのを選ぶんですね」
「包むもんやから。中身を守る葉やから」
省吾は黙って聞いた。
ハナが不意に、籠を差し出した。
「手、貸しなさい」
命令でも懇願でもない。ただの、当然のひと言だった。
言われるまま、省吾は籠を受け取った。ハナが示す通りに葉を手に取ると、青い匂いが鼻をついた。
三十年前に嗅いだ匂いだった。
職人だった頃——いや、もっと前。あの台所の、母の隣に立っていた頃の。
「……こうですか」
「そう」
ハナはそれだけ言って、また黙々と葉を選った。
川の水音だけが、ふたりの間を静かに流れていった。
