夜の花畑から引き上げたのは、深夜を過ぎた頃だった。
透矢は仙蔵の家の縁側で、毛布を借りたまま朝を迎えた。眠ったのか、眠っていないのか、自分でもわからなかった。夢と現のあいだに、祖父の笑顔がずっと漂っていた。
蘭の声で目が覚めた。
「おじいちゃんが……倒れた」
声が震えていた。透矢が奥の部屋へ駆け込むと、仙蔵は布団の中で白い天井を見上げていた。呼吸は浅く、顔色に土の気配があった。
救急車を呼ぶべきか問うと、仙蔵は細い声で首を振った。
「慌てんでええ。年寄りはよく、こうなる」
それでも蘭の目には、ありありと恐怖が宿っていた。
透矢は台所で茶を淹れながら、頭の中で何かが音を立てて崩れていくのを感じた。
——花守りの儀式は、仙蔵しか知らない。記録帳も、古びた一冊があるきりだ。この人が逝けば、すべてが西谷の土に還る。
それは学術的な損失などという話ではなかった。もっと肉のある、生きた何かが、消えようとしていた。
民俗学を捨てた。論文も、肩書きも。
それなのに今、透矢は最も生きた民俗の前に立たされている。
仙蔵の部屋に戻ると、老人はゆっくりと手を伸ばしてきた。透矢がその手を握ると、思いのほか強い力で握り返された。
「記録を、続けてくれるか」
声は小さかったが、言葉は重かった。
透矢は答えようとして、喉が詰まった。
窓の外、西谷の山は朝靄の中にある。棚田の花たちは今日も静かに咲いているだろう。誰に見られなくても、誰に記されなくても。
——でも、記されなければ、消える。
透矢はゆっくりと頷いた。
「わかりました」
蘭が廊下の影から、こちらを見ていた。
