ハナの作業場は、波豆川から少し入った民家の土間だった。
低い天井、黒ずんだ梁、土の匂い。省吾が子供の頃に嗅いだ懐かしさが、そこにはまだ生きていた。
「小豆、昨夜から浸けてある。渋切りしてから炊くんや」
ハナは手順を説明するでもなく、ただ淡々と告げた。
省吾は言われるまま鍋の前に立った。指先で小豆をすくう。柔らかく、しかし芯がまだわずかに残っている。
この感触だ、と思った。
炊き加減、水の量、火の強さ。体が勝手に判断しようとしていた。
土間の窓から五月の光が斜めに差し込み、鍋から上がる白い湯気を静かに照らしていた。
しばらくして、漉し作業になった。
省吾は竹の漉し器に煮た小豆を乗せ、掌の根元を使って押しはじめた。滑らかな抵抗感。皮が残り、餡が落ちる。三十年前と同じ、その感触が掌によみがえってきた。
指が、自然と動いていた。
「あんた」
ハナの声がした。
「餡炊いたことあるな」
問いではなかった。確かめるまでもないことを、ただ口にしたような言い方だった。
省吾は少し間を置いた。
「……昔、少し」
「そうやな」
ハナはそれ以上何も言わなかった。省吾も続けなかった。
窓の外では、丘の斜面を覆う新緑が風に揺れていた。西谷の五月は、何もかもをそのままにしておく。問い返さない。急かさない。
漉し器の向こうで、白い餡がゆっくりと溜まっていった。
省吾の指は止まらなかった。止め方を、忘れていたかのように。
