古書の匂いというのは、時間の匂いだと透矢は思っている。
黴と紙と、誰かの指先が残した脂の匂い。それが混ざり合うと、妙に甘くなる。
依頼主から送られてきた段ボール三箱。中身は明治から昭和にかけての民俗学関係の雑書だった。目録を作るだけの単純な仕事のはずが、ある一冊のページを繰った瞬間、透矢の手が止まった。
余白だった。
「……西谷・花守りの丘・春分の夜」
褪せた万年筆のインク。文字の隣には、略図らしき走り書き。棚田を模したような段々の線、その上に小さな丸がいくつも連なっていた。
祖父の声が、不意に蘇った。
――花には魂が宿る。それを守る者が、必ずおる。
幼い透矢は笑わなかった。笑えなかった。祖父の目が、冗談を言う顔ではなかったから。
三日後、透矢は宝塚市西谷地区に立っていた。
武庫川の上流へと向かう道は細く、両側から木々が覆いかぶさるように伸びていた。棚田の風景が現れたのは、集落を抜けてしばらく歩いた頃だ。
そして、見た。
畦道に沿って、白い水仙が並んでいた。
ただ、咲いているのではない。等間隔に、一輪の乱れもなく、まるで誰かが定規を当てて植えたかのように整然と。それでいて、土には何の痕跡もない。
「こんな……はずがない」
呟いた瞬間、眩暈がした。
水仙の白が滲んで、視界が揺れた。甘い香りが鼻の奥を満たし、足の感覚が遠くなっていく。
気がつくと、日が傾いていた。
見知らぬ農道。背後の山の稜線は茜色に染まり、どこかで鳥が一声、鳴いた。
透矢は振り返った。
水仙は、一輪もなかった。
