卵の記憶 〜西谷春暖〜 #4-5

野草摘みから戻った午後、雄一郎は美咲の小さな厨房に立っていた。

「本当に作ってくださるんですか」

「ええ。お礼です」

窓辺に並んだ朝採りの卵を手に取る。殻の温もりが、まだ微かに残っている。

雄一郎は静かに火を起こした。十年ぶりに握るフライパンが、不思議なほど手に馴染む。

「何を作られるんですか」

「オムレツです。ただし、僕なりの」

卵を丁寧に割り、白身の筋を取り除いていく。かつて修業していた店の師匠から教わった、基本中の基本。

「美しい手つきですね」

美咲が感嘆の声を漏らす。

フライパンに落としたバターが、小さな泡を立てながら溶けていく。卵液を流し入れると、縁から固まり始めた。

箸で素早くかき混ぜ、半熟の状態で火を止める。フライパンを傾けながら、三つ折りに仕上げていく。

皿に移したオムレツは、ふんわりと黄金色に輝いている。

「どうぞ」

美咲がひと口運ぶと、その頬に涙が伝った。

「美味しい。とても」

「ありがとうございます」

雄一郎の声も、かすれている。

夕日が西谷の山並みを染める頃、二人は軒先に並んで座っていた。

「また来てください」

美咲の横顔が、茜色に浮かび上がる。

「必ず」

雄一郎が答えると、彼女は小さく微笑んだ。

風が頬を撫でて、どこからか鶯の声が聞こえてくる。約束という名の新しい季節が、静かに始まろうとしていた。