野草摘みから戻った午後、雄一郎は美咲の小さな厨房に立っていた。
「本当に作ってくださるんですか」
「ええ。お礼です」
窓辺に並んだ朝採りの卵を手に取る。殻の温もりが、まだ微かに残っている。
雄一郎は静かに火を起こした。十年ぶりに握るフライパンが、不思議なほど手に馴染む。
「何を作られるんですか」
「オムレツです。ただし、僕なりの」
卵を丁寧に割り、白身の筋を取り除いていく。かつて修業していた店の師匠から教わった、基本中の基本。
「美しい手つきですね」
美咲が感嘆の声を漏らす。
フライパンに落としたバターが、小さな泡を立てながら溶けていく。卵液を流し入れると、縁から固まり始めた。
箸で素早くかき混ぜ、半熟の状態で火を止める。フライパンを傾けながら、三つ折りに仕上げていく。
皿に移したオムレツは、ふんわりと黄金色に輝いている。
「どうぞ」
美咲がひと口運ぶと、その頬に涙が伝った。
「美味しい。とても」
「ありがとうございます」
雄一郎の声も、かすれている。
夕日が西谷の山並みを染める頃、二人は軒先に並んで座っていた。
「また来てください」
美咲の横顔が、茜色に浮かび上がる。
「必ず」
雄一郎が答えると、彼女は小さく微笑んだ。
風が頬を撫でて、どこからか鶯の声が聞こえてくる。約束という名の新しい季節が、静かに始まろうとしていた。
