春分の夜は、月が異様に大きかった。
仙蔵の軽トラに揺られ、棚田の畦道に降り立った透矢は、その白光に思わず目を細めた。西谷の山々が濃い藍色の影を引いて、四方からそっと近づいてくるようだった。
「ほら、あそこや」
蘭が指さす先に、一面の花が広がっていた。
水仙や菜の花が、月明かりを浴びてほのかに光っている。風が吹くたびに一斉に揺れ、まるで何千もの小さな灯が息をしているように見えた。
「毎年、春分の夜だけ、こうなるんや」
仙蔵は低い声でそう言い、それ以上は語らなかった。
透矢は無言で畦道を進んだ。足元の土が柔らかく、靴底に吸いつくようだった。
花の中ほどまで来たとき、視界の端に何かが揺れた。
——人の、輪郭。
透矢は息を呑んだ。薄い光の粒が集まるようにして、小柄な老人の形がそこにあった。
「じいちゃん……」
声が出た。自分でも気づかぬうちに。
老人の輪郭は答えなかった。ただ、確かに笑っているように見えた。それから、風の音に混じって、透矢の耳の奥に声が届いた。
——古書の余白に書いたのは、おまえに来てほしかったからじゃ。
透矢の両目が、熱くなった。
理由などわからなかった。ただ、涙が出た。止められなかった。
追いかけて西谷まで来た問いが、この瞬間、問いであることをやめていた。
蘭が隣に並び、静かに言った。
「咲いてるあいだだけ、会えるんやって」
透矢は頷くことも、言葉を返すこともできなかった。ただ花の揺れる音を、夜の底に聞いていた。
