花守りの夢譚 〜西谷の春に眠る秘密〜 #10-5

春分の夜は、月が異様に大きかった。

仙蔵の軽トラに揺られ、棚田の畦道に降り立った透矢は、その白光に思わず目を細めた。西谷の山々が濃い藍色の影を引いて、四方からそっと近づいてくるようだった。

「ほら、あそこや」

蘭が指さす先に、一面の花が広がっていた。

水仙や菜の花が、月明かりを浴びてほのかに光っている。風が吹くたびに一斉に揺れ、まるで何千もの小さな灯が息をしているように見えた。

「毎年、春分の夜だけ、こうなるんや」

仙蔵は低い声でそう言い、それ以上は語らなかった。

透矢は無言で畦道を進んだ。足元の土が柔らかく、靴底に吸いつくようだった。

花の中ほどまで来たとき、視界の端に何かが揺れた。

——人の、輪郭。

透矢は息を呑んだ。薄い光の粒が集まるようにして、小柄な老人の形がそこにあった。

「じいちゃん……」

声が出た。自分でも気づかぬうちに。

老人の輪郭は答えなかった。ただ、確かに笑っているように見えた。それから、風の音に混じって、透矢の耳の奥に声が届いた。

——古書の余白に書いたのは、おまえに来てほしかったからじゃ。

透矢の両目が、熱くなった。

理由などわからなかった。ただ、涙が出た。止められなかった。

追いかけて西谷まで来た問いが、この瞬間、問いであることをやめていた。

蘭が隣に並び、静かに言った。

「咲いてるあいだだけ、会えるんやって」

透矢は頷くことも、言葉を返すこともできなかった。ただ花の揺れる音を、夜の底に聞いていた。