記事を送稿した翌朝、雄一郎は西谷へ向かうバスに身を任せていた。
昨夜遅く、編集長から思いがけない言葉をかけられた。
「お疲れさま。いい記事だった。西谷での取材、君を変えたな」
確かに何かが変わっていた。十年間封印してきた想いが、静かに動き始めている。
西谷のバス停に着くと、初夏の陽射しが肌に優しく触れた。あの雨の日から三日が過ぎていた。
古民家への道のりで、雄一郎は立ち止まった。庭先で鶏の世話をする美咲の姿が見える。
「美咲さん」
声をかけると、彼女はゆっくりと振り返った。
「雄一郎さん」
「あの日は、すみませんでした」
「いえ、お仕事ですもの」
美咲の声に責める色はない。それがかえって胸に痛かった。
「記事、書き上げました。西谷の卵の話を」
「そうですか。良かった」
しばらく沈黙が続いた。鶏たちが足元でのんびりと歩き回っている。
「実は、決めたことがあります」雄一郎は言った。「料理の世界に戻ろうと思うんです」
美咲の目が大きくなった。
「編集の仕事を続けながらですが、もう一度挑戦したい。ここで、美咲さんと過ごした時間が教えてくれました」
「雄一郎さん」
「あのオムレツを作った時、忘れていた何かを思い出した。料理をする喜びを」
美咲は微笑んだ。初めて見る、心からの笑顔だった。
「私も、お手伝いできることがあれば」
新緑の木々が風に揺れて、二人を優しく包んでいる。
「美咲さん、今度は約束を守ります」
「はい。待っています」
西谷の青い空の下、雄一郎の新しい物語が始まろうとしていた。
