卵の記憶 〜西谷春暖〜 #4-7

記事を送稿した翌朝、雄一郎は西谷へ向かうバスに身を任せていた。

昨夜遅く、編集長から思いがけない言葉をかけられた。

「お疲れさま。いい記事だった。西谷での取材、君を変えたな」

確かに何かが変わっていた。十年間封印してきた想いが、静かに動き始めている。

西谷のバス停に着くと、初夏の陽射しが肌に優しく触れた。あの雨の日から三日が過ぎていた。

古民家への道のりで、雄一郎は立ち止まった。庭先で鶏の世話をする美咲の姿が見える。

「美咲さん」

声をかけると、彼女はゆっくりと振り返った。

「雄一郎さん」

「あの日は、すみませんでした」

「いえ、お仕事ですもの」

美咲の声に責める色はない。それがかえって胸に痛かった。

「記事、書き上げました。西谷の卵の話を」

「そうですか。良かった」

しばらく沈黙が続いた。鶏たちが足元でのんびりと歩き回っている。

「実は、決めたことがあります」雄一郎は言った。「料理の世界に戻ろうと思うんです」

美咲の目が大きくなった。

「編集の仕事を続けながらですが、もう一度挑戦したい。ここで、美咲さんと過ごした時間が教えてくれました」

「雄一郎さん」

「あのオムレツを作った時、忘れていた何かを思い出した。料理をする喜びを」

美咲は微笑んだ。初めて見る、心からの笑顔だった。

「私も、お手伝いできることがあれば」

新緑の木々が風に揺れて、二人を優しく包んでいる。

「美咲さん、今度は約束を守ります」

「はい。待っています」

西谷の青い空の下、雄一郎の新しい物語が始まろうとしていた。