夜が明けても、信一郎は書斎の椅子に座ったまま動けずにいた。兄の内部告発資料と父の未投稿原稿が机の上に広がっている。
三十年前の真実は、想像していたものより遥かに重かった。
父は正義感の強い記者だった。だが、息子を守るために筆を折った。兄は環境を守ろうとして会社を告発したが、結果的に父の記者生命を断つことになった。
どちらも間違ってはいない。だが、どちらも深い傷を負った。
「この資料を公表すべきなのだろうか」
信一郎は呟いた。真実を明らかにすることは記者の使命だ。しかし、それが今の西谷にとって本当に必要なことなのか。
階下から母の声が聞こえた。
「信一郎、朝ご飯よ。佐藤さんが迎えに来てくれるって」
「分かった」
身支度を整えて一階に降りると、佐藤が玄関で待っていた。
「今日は環境部会の川の調査があるんです。良かったら一緒に来ませんか」
波豆川の上流へ向かう道で、佐藤が語った。
「最近、川がきれいになってきたんですよ。地域の皆さんの努力の成果です」
川辺に着くと、数人の住民が水質検査をしていた。中年の女性が近づいてきた。
「私たち、三十年前から活動を続けているんです。開発の話があった頃から、この川を守りたくて」
信一郎の胸に熱いものがこみ上げた。
父と兄が守ろうとした川を、地域の人々がずっと大切にしてきた。開発計画は頓挫したが、それで終わりではなかった。
「川の水、本当にきれいですね」
「ええ。蛍も戻ってきました。去年は二十年ぶりに大群が舞ったんです」
水面を見つめながら、信一郎は思った。
過去の真実を暴くことより、未来への希望を育てることの方が大切なのかもしれない。父と兄の密約は、この川を愛する人々の手で、既に別の形で実を結んでいる。
