土の匂いというものは、人の記憶をざわめかせる。
蓮がはじめてそれを知ったのは、波豆川のせせらぎが遠く聞こえる、六月の終わりの午後のことだった。
宝塚市の北部、西谷。神戸の喧騒からひとつ峠を越えると、そこには別の時間が流れている。棚田が山の斜面を静かに這い上がり、田んぼの水面が夏の光を受けてきらきらと震えていた。
蓮は雑草に埋もれた畦道に立ち、スマホのメモ帳を開いた。
《西谷・祖父の畑。休眠状態。雑草の種類:ヨモギ、スギナ、カヤ。土の色は濃い赤茶。湿度高め》
観察する。記録する。それだけが、今の蓮にできることだった。
あの教室で起きたことは、ここでは関係ない。そう自分に言い聞かせながら、蓮は草をかき分けて畑の奥へと踏み込んだ。
足の裏に、何かが当たった。
最初は石かと思った。だが指先で土を掘ってみると、それはちがった。
小さな鍵だった。
古びた真鍮製で、長さは五センチほど。錆が浮いているが、細かな模様が刻まれている。日常的に使う南京錠の鍵ではない。どこか、装飾的な佇まいをしていた。
「なんで、こんなものが……」
誰に言うでもなく、蓮はつぶやいた。
土の中から出てきたものが、かならずしも偶然そこにある理由はない。むしろ、意図的に埋められたと考えるほうが——推理小説的には——自然だ。
蓮の胸の奥で、何かが静かに動いた。眠っていたものが、ゆっくりと目を覚ますような感覚。
波豆川の水音だけが、変わらず涼しく続いていた。
《土中から鍵を発見。古い真鍮製。模様あり。要・追加調査》
蓮はメモを打ち込み、鍵を丁寧にハンカチで包んだ。夏は、まだ始まったばかりだった。
