川の水質が改善されて一週間。光男は毎日のように夕暮れ時に川辺を歩いていた。測定器のデータは確実に良くなっているのに、肝心の蛍はまだ姿を見せてくれない。
「まあ、そう簡単にはいかないよね」
そう自分に言い聞かせながら、今日もいつものコースを歩いていると、川向こうの木陰に小さな光が見えた。
光男の心臓が跳ね上がった。
「あ、あれは!」
淡い緑色の光が、ふわりふわりと舞っている。間違いない。これこそが蛍の光だ。
「やった、やったよ!」
光男は思わず声を上げて、川辺に駆け寄った。感動で目頭が熱くなる。二十七年間、論文でしか知らなかった蛍の光を、ついに自分の目で見ることができた。
「おーい、光男くん、何しとるんや」
振り返ると、散歩中のおばあちゃんが不思議そうに立っていた。
「おばあちゃん、見てください! 蛍です、蛍! あの光!」
おばあちゃんは光男が指差す方向を見て、首をかしげた。
「あれ、街灯やで」
「え?」
よく見ると、確かに電柱の上で蛍光灯がちらちらと点滅していた。故障して不安定になっているだけだった。
「あはは、博士ともあろうお方が」
おばあちゃんの笑い声に、光男は顔を真っ赤にした。
その時だった。
本当に小さな、けれど確かな光が、二人の前をゆっくりと横切っていく。今度は間違いなく、本物の蛍だった。
「あ」
光男とおばあちゃんは同時に息を呑んだ。
やわらかな光が夕闇に溶けながら、静かに川面へと向かっていく。二人はただ黙って、その神秘的な光景を見つめていた。
「きれいやなあ」
おばあちゃんの小さなつぶやきに、光男は深くうなずいた。論文では決して味わえない、本物の感動がそこにあった。
