三日目の朝、敬太郎がいつものベンチに向かうと、田中翁が美咲と立ち話をしているのが見えた。
「おお、橋本くん。ちょうどよいところに」
翁は手を上げて敬太郎を招いた。
「今日は里山を歩いてみないか。この娘さんも一緒にな」
美咲は少し照れたような表情を浮かべている。
「お邪魔でなければ」
「とんでもない。一人より二人、二人より三人の方がよい話もあるものじゃ」
三人は畑の奥へと続く小径を歩いた。桜の古木が点在し、足元には菫やたんぽぽが顔をのぞかせている。翁の足取りは確かで、まるで土地の一部のように自然と調和していた。
「この里山はな、何百年もの間、人の手で守られてきた」
翁は立ち止まり、雑木林を見上げた。
「昔の人は木を切り、炭を焼き、畑を耕した。自然を壊すのではなく、自然と共に生きることを知っていたのじゃ」
美咲が熱心に頷く。敬太郎もまた、翁の言葉の奥にある何かを掴もうと耳を澄ませていた。
「橋本くん、君の文学というものも同じではないかな」
翁は振り返った。
「人の心を耕し、言葉という種を蒔く。それには時間がかかる。しかし必ず芽を出すものじゃ」
敬太郎の胸に、温かいものが宿った。文学と現実。その二つが対立するものではなく、土と種のような関係なのかもしれない。
「田中さん」
美咲が口を開いた。
「私、やっぱり農業をやりたいです。時間がかかってもいい。この土地で学びたいんです」
翁は深く頷いた。
「よろしい。この土地には君たちのような若い力が必要じゃ」
風が頬を撫でていく。西谷の里山が、二人の迷いを静かに受け止めているようだった。
