「ええカメラ持っとんな」
声がして振り向くと、畦道の向こうに老いた女がいた。腰が少し曲がっていたが、目だけが若かった。
「奥田春江いいます。この田んぼ、うちのもんです」
水仙を撮っていたのを怒られるかと思ったが、春江は特に咎める様子もなく、渉の隣にしゃがみこんだ。花を見る目が、管理者のそれではなかった。もっと複雑な、懐かしむような、それでいてどこか警戒するような目だった。
「誰が植えたんですか、これ」
「さあな」と春江は言った。「わたしが嫁に来たときには、もうあったから」
日が西に傾くころ、春江の案内で旧西谷中学校の裏手まで歩いた。廃校になって久しいその建物は、窓ガラスだけが几帳面に残っていた。空を映して、沈黙していた。
納屋は校舎の影に隠れるように建っていた。古い木の匂いがした。麻田が好きな匂いだ、と渉は思った。それから、もう過去形でしか語れないことを、また思い出した。
春江が棚の奥から取り出したのは、大学ノートほどの大きさの手帳だった。表紙は褪せた緑色で、角が丸くなっていた。
開くと、几帳面な文字が並んでいた。花の名前。座標らしき数字。日付。昭和四十三年、四十四年、四十五年。
ところどころ、ページが切り取られていた。丁寧に、しかし確実に。
「切ってあるのは、どのページも花の場所が書いてあるところだけです」
渉が言うと、春江はゆっくりうなずいた。
「この手帳の持ち主は、誰かに消されたんや」
ぽつりと、そう言った。
風が納屋の隙間を抜けた。埃が舞い、窓の外で何かの鳥が鳴いた。渉は手帳を持つ手に、わずかに力を込めた。
切り取られた余白は、まるで地図の、失われた続きのようだった。
