チューリップ畑は、丘の中腹にあった。
赤、黄、白、紫。几帳面に並んだ花たちが、朝の光の中でわずかに揺れている。誰かが毎年ここに種を植え、水をやり、雑草を抜く。その積み重ねがこの景色をつくっている。
渉はカメラのファインダーを覗きながら、そのことを考えた。美しい場所には、たいてい見えない労働が埋まっている。
「撮っとってもええけど、ここのいちばんええ顔は昼過ぎやで」
声がして振り返ると、白い軍手をはめた老人が立っていた。八十代だろう。背は低いが、姿勢だけが妙に若かった。
田村義則、と彼は名乗った。この畑の世話をしている一人だという。
「タナカ先生を知っていますか」と渉は聞いた。
義則の手が止まった。それは一瞬のことだったが、渉はその一瞬を見逃さなかった。長年シャッターを押してきた人間には、そういう目が備わっている。
「知っとるも何も」と義則は言った。「わしが五年生のときの担任や」
二人は畑の端の丸太に並んで腰をおろした。桜色に滲んだ空が、西の山の向こうに広がっていた。
「先生はな、山の花の地図を作っとった」
義則はゆっくりと話した。急ぐ必要がない話し方だった。田中孝平は、ある開発計画が西谷の山に持ち上がったとき、反対する根拠にしようと、在来種の生息地を丹念に記録しはじめた。
「希少な花がどこに咲いとるか、それを地図に残そうとしとった」
しかし計画を推進する側の圧力は、想像より早くやってきた。
「ある日、先生が手帳の何ページかを破って、わしに渡した。これを持っとれ、誰にも言うな、て」
義則は軍手を脱いで、自分の手のひらを見た。
「そのまま先生は来んようになった」
渉は何も言わなかった。沈黙は、ときに言葉より多くのことを引き出す。
「その手帳のページは」と渉はようやく口を開いた。「まだ手元にありますか」
義則は桜色の空を見上げた。
「ある」と彼は短く言った。「ずっと、誰かが来るのを待っとった」
チューリップが風に揺れた。渉は息を吸い込んだ。川が夜明けに一瞬息を止めるように、時間がわずかに静止した気がした。
