四月の末というのに、西谷の空気はまだ冷たかった。
多田省吾は段ボール箱をひとつ縁側に置き、背を伸ばした。腰の鈍い痛みが、五十四という歳を正直に告げてくる。
母の実家は、波豆川沿いの小高い場所に建つ古い農家だった。茅葺きをトタンに替えた屋根。軋む廊下。それでも柱はまだ太く、しっかりとこの土地に根を張っていた。
荷をほどく気力もなく、省吾はしばらく縁側に腰をおろした。
里山の空気が、鼻の奥に静かに入ってくる。杉と土と、それから——何か甘いような、青いような匂い。
「……柏か」
声に出して、自分で少し驚いた。
川のほとりに目をやると、老いた女が柏の葉を束ねているのが見えた。白髪を手拭いで包み、腰をかがめて丁寧に、丁寧に。その傍らで、小さな火が煙を上げていた。
白い煙は、ゆるやかに波豆川の水面へ向かって流れ、やがて春霞の中に溶けていった。
省吾の胸に、ふいに何かが甦った。
幼い頃、この台所で母が柏もちを蒸かしていた。湯気が白く立ちのぼり、葉の青い香りが家じゅうに満ちていた。「しょうちゃん、もうちょっとの辛抱やで」と、母は笑いながら言った。
あの頃、和菓子職人になろうと決めたのは、あの煙のせいかもしれなかった。
店を畳んで三年。妻を失って五年。息子の顔は、もう半年見ていない。
大阪に置いてきたもの、失ったもの——それらのことを、省吾はこの西谷に来てからも、ただじっと抱えたまま、何もできないでいた。
川辺の老女が、ふと顔を上げた。こちらを見た——気がした。
煙はまだ、細く白く、空へ向かっていた。
