宿を探していた、というよりは、ただ歩いていた。
波豆川から離れ、農道に入ったのは、暗くなるまで動きたくなかったからだ。田んぼのあぜ道が夕暮れの中に伸び、カエルの声が足元から湧き上がる。西谷の六月は、音から始まる土地らしかった。
「おい、兄ちゃん」
振り返ると、畦に軽トラが停まっていた。荷台に泥のついた農具を積んだまま、運転席の窓から白髪の老人が顔を出している。
「どこ行くんや」
「宿を探しています」
「この辺に宿なんかあらへん。うちの離れ、使え」
断る間もなかった。老人——奥田庄平は、誠司の返事を待たずにドアを開けた。
築六十年は経つだろう母屋の離れに通され、誠司は言われるままに座敷に腰を下ろした。人間不信の自分が、なぜ見知らぬ老人の厚意を断れなかったのか。庄平の目に、計算の色がなかったからかもしれない。
夕食は質素だった。味噌汁、漬物、炊きたての飯。庄平は向かいに座り、箸を動かしながらぽつぽつと話した。山の天気、田んぼの水、鹿の害。誠司は相槌だけを打ち続けた。
「ところで」と庄平が湯呑みを置いた。「兄ちゃん、何しに西谷へ来たんや」
「ホタルを」
「ホタルか」老人は少し目を細めた。「村瀬って子も、そう言っとった」
誠司は箸を止めた。
「三年前や。若い刑事で、礼儀正しい子やった。同じようにふらっと来て、ここに泊まっていった」
庄平は何でもないことのように続けたが、誠司の耳にはもう、他の言葉が入らなかった。
村瀬は、ここにいた。
この座敷で、飯を食ったのか。
