夕暮れが山の向こうへ沈むと、西谷の空は急に深くなる。
縁側に出ると、武庫川のほうから虫の声が聞こえた。昼間あれほど騒がしかった庭が、水を吸った土の匂いだけを残して静まっていた。
台所から、祖父が湯呑みを二つ持って現れた。
「飲んでみ」
それだけ言って、隣に腰を下ろした。
悠斗は湯呑みを両手で包んだ。薄い黄金色の液体から、細く湯気が立っていた。一口すすると、舌の上でゆっくりと何かが開いた。昆布の静かな甘み、煮干しの骨っぽい深さ。シンプルなのに、喉の奥まで真っ直ぐ届いてくる感じがした。
「これ、どのくらい煮干し入れてるんですか」
聞いた瞬間、祖父は少し可笑しそうに笑った。
「量ったことないな。その日の水と気分や」
悠斗は黙った。
専門学校では、何でも計る。出汁の比率、塩の量、火にかける時間。先生の言う通りにやれば、一定の味になる。それが正しい料理だと思っていた。あの失敗の日だって、計ることを怠ったわけじゃなかった。なのに、どこかが違った。
——この味は、どこにも計り方が書いていない。
「レシピがない料理って、再現できないじゃないですか」
言ってから、少し尖った言い方だったと思った。でも祖父は気にしていなかった。
「再現せんでもええんちゃうか。そのとき作ったもんが、そのとき一番ええんやから」
縁側の端に、ひかるが来て座った。悠斗が気づかないうちに、いつの間にか庭にいたらしい。
「悠斗くん、おいしい顔してる」
ぽつりと言って、自分の湯呑みをもらいに台所へ立った。
おいしい顔。自分ではわからない。でも言われて、胸の中で何かが揺れた。
料理の正解ってなんだろう、と悠斗は初めて、本当の意味で考えた。虫の声が、また遠くで鳴いた。
