名郷の水路沿いに、老人の後ろ姿があった。
苗代の縁にしゃがみ込み、黙々と土を均している。霜の名残が草に白く光る朝だった。
冬馬は調査票を手に近づいた。
「おはようございます。農業試験場の者ですが」
老人はゆっくりと振り向いた。深く刻まれた皺の中に、黒く澄んだ瞳がある。八十は超えているだろう。だが土を握るその手は、不思議なほど滑らかだった。まるで別の時間を生きているかのような手だった。
「市造いうもんや。見ての通り、ここの土と暮らしとる」
老人はそれだけ言い、また苗代に向き直った。
冬馬はタブレットを取り出し、昨日採取した土のデータを開いた。
「この周辺の分析結果です。pH、有機物量、窒素バランス——数値で見ると、かなり厳しい状態で」
市造は一瞥もしなかった。
「土はな、嘘をつかん」
低い声が、水路の音に混じった。
「数字が何と言うとっても、この畑はまだ眠っとるだけや」
冬馬は言葉に詰まった。眠っている。そう言われると、昨日感じたあの気配が胸の奥に戻ってくる。待っているような、あの古い匂いが。
市造がゆっくりと立ち上がり、泥だらけの手を冬馬の手に重ねた。
固く、温かかった。
——そして冬馬は、ほんの一瞬だけ見た。
苗代の土が、薄く光ったように見えた。地の底から何かが呼吸しているような、淡い揺らぎだった。
瞬きをすると、消えていた。
「驚いたか」
市造が静かに笑った。笑い皺の奥の瞳が、ほんの少しだけ光を帯びているように見えた。
冬馬は答えられなかった。
データには、何も映らない。それでも、この手の温もりは——確かに、土と同じ匂いがした。
