切畑の棚田へ続く山道を、冬馬は一人で登っていた。
まだ夜の匂いが残る早朝だった。足元の土が湿り、靴裏にじんわりと冷たさが染みてくる。尾根の向こうから霧が流れ込んでいた。白く濃い霧だった。山が息をしているようだった。
棚田の入り口に立ったとき、冬馬は思わず立ち止まった。
霧の中に、光があった。
淡い、青みがかった光だった。目を細めると、それは畝だった。荒れ地のただ中に、一列だけ、整然と並ぶ畝が白く浮かび上がっている。雑草に埋もれた周囲の地面とは明らかに違う。誰かが、つい今しがた丁寧に土を起こしたような畝だった。
冬馬はタブレットではなく、カメラを取り出した。
シャッターを切ろうとした、そのとき。
霧が濃くなった。
一息で、あたりが白に塗り込められた。カメラのモニターに何も映らない。冬馬は顔を上げ、目を凝らした。
霞の奥に、小さな後ろ姿があった。
子どもだった。背丈からすると、小学校に上がる前だろうか。紺色の服を着て、ゆっくりと畑の奥へ歩いている。振り返らない。声も立てない。ただ、確かに、そこにいた。
「おい——」
声が出なかった。喉が閉じていた。
子どもは霧に溶けるようにして消えた。畝だけが残った。光は、まだそこにあった。
冬馬はしばらく動けなかった。
やがて霧が薄れ、朝の光が棚田を照らし始めた。鳥の声がした。遠くで武庫川の支流が鳴いている。
畝は、ある。
データには存在しないはずの、耕された土が、確かにそこにある。
冬馬はゆっくりとしゃがみ、素手で土に触れた。温かかった。昨日の市造の手と、同じ温もりだった。
