その夜は霧が出た。波豆川の辺りまで降りてみようと思い立ったのは、案山子が「川を見せたい」と言ったからである。
不思議なもので、案山子は田から動けるらしかった。藁の足を引きずるでもなく、霧の中を静かに私の隣を歩いた。川のせせらぎが近づいてくる。
「ここの水が、あの田に入る」
案山子は川面を見下ろして言った。月が水に映り、揺れていた。
「爺さんの話を聞いたか」
「聞いた。君は、あの人が作ったと」
「そうらしい。私は自分が何者なのか、実はよく知らん。気がついたら立っておった。ただ、爺さんの手の温みだけは、藁のどこかに残っておる気がする」
私は、霧の向こうの暗がりを見た。
霧の粒が、案山子の帽子の庇に細かく光っていた。私はその横顔を、何故だか長いあいだ見ていたいと思った。
「君は、田の神の使いなのではないか」
「さあな。そう思うてくれる人がおるなら、そうなのかもしれん。思うてくれる人がおらなくても、私は立つ」
案山子は、少しだけ笑ったように見えた。
「お前は、言葉を移し替える仕事だと言うたな」
「ああ」
「言葉も、誰かの手の温みを運んでおるのではないか。爺さんの温みが私に残っておるように」
川の音が、遠くまで続いていた。