五月の連休が明けたばかりの朝、篠田渉は阪急宝塚駅発のバスに乗った。
祖母の七回忌から、もう半年が経つ。形見として受け取った小さな手帳は、仕事鞄の底に沈んだまま、ずっとそこにあった。
玉瀬のバス停で降りると、山が近かった。
神戸の街では感じたことのない種類の静けさが、渉の耳に入ってきた。車の音も、工事の音もない。ただ、鳥と、風と、どこか遠くで流れる水の音だけが聞こえた。
そして——匂いがした。
青くて、やわらかくて、少し甘い。渉は思わず立ち止まり、空気を吸い込んだ。図面を引くことに慣れすぎた手が、鞄の持ち手をそっと握りなおした。
匂いの先を辿ると、古い民家の軒先に、白髪の老婆がいた。
縁台に腰かけ、手を休めることなく、笹の葉で何かを包んでいる。細い指が、慣れた動きで紐を結わえていく。
「あの、すみません」
渉が声をかけると、老婆はゆっくりと顔を上げた。目尻の深い皺が、笑うとさらに深くなった。
「道に迷うたん?」
「いえ、祖母がよく来ていた場所を探していて。篠田という者なんですが」
老婆の手が、ほんの一瞬、止まった。
「篠田さんとこの……。きよ子さんの、孫かいな」
渉はうなずいた。祖母の名前が、こんなにもなめらかに他人の口から出てくることに、少し驚いた。
「今年も教室があるよ。ちょうど今日からや」
老婆は縁台の奥を顎でしゃくった。引き戸の向こうから、笹を蒸す湯気が、白くたなびいて出てきた。
渉は、断る言葉を探した。
しかし、その湯気の奥に、誰かの笑い声がした。若い女の声だった。
気づけば、渉は足を踏み出していた。
