克哉がそのメモを書いたのは、桜が散りかけたある夕方だったと、蓮は記憶していた。
コーヒーの染みが端についた、大学ノートから破り取ったような紙。走り書きの地図には「武田尾を過ぎろ」「棚田が見えたら窓を開けろ」と几帳面とは言えない文字で書き連ねてあり、最後にひとこと、「笹の匂いを嗅いでみろ」とだけ添えられていた。
それが遺言になるとは、当然誰も思っていなかった。
車窓の外で風景が変わっていく。阪急電車を宝塚で乗り換え、バスに揺られるうちに、街はゆっくりとほどけるように山の中へ溶けていった。武田尾のあたりを過ぎると、なにか別のものが始まる予感がした。空気の密度が違う、と蓮は思った。東京のスタジオで切り取ってきたどんな光とも違う、青みがかった午前中の光が、窓ガラスを柔らかく叩いていた。
棚田が現れたのは、不意打ちのように。
山の斜面を整然と刻んだ水田が、まだ浅い水を張って空を映している。西谷の五月は、こんな色をしているのか。
カメラは膝の上で眠ったままだった。
蓮はシャッターを切らなかった。切れなかった、というほうが正確かもしれない。ファインダー越しでなく、ただ目で見たかった。克哉が「行けよ」と言ったこの場所を、レンズなしで。
「笹の匂いってどんなだろう」
誰にでもなく、呟いた。
バスは西谷の奥へ向かって、ゆっくりと走り続けた。
