夕暮れが波豆川の水面を橙に染めるころ、渉は宿を出た。
明日の朝には神戸へ戻る。それだけはわかっていた。
何を言いに行くつもりなのか、自分でもよくわからなかった。ただ足が、坂の上の農家へと向いていた。
石垣沿いの細道を上がると、灯の家の灯りが見えた。開いた窓から、低い声が流れてきた。
「都会の会社いうても、農業の仕事やからな」
父親の声だった。
「……うん」
灯の声が、静かに返った。
「お前が決めることや。けど、ここにいてほしいのも、本当のことで」
渉は石垣の手前で足を止めた。
農業法人、という言葉が風に混じって聞こえた。それきり、二人の声は低くなり、渉には届かなくなった。
踵を返した。
来た道を引き返しながら、渉は自分の手を見た。毎日図面を引く手だ。寸法と線の中に収まっていれば、何も迷わずにいられる手だ。
波豆川のほとりに下りると、水音だけがあった。
灯は迷っている。それは昨日の土間でも、ちまきの香りの中でも、うすうす感じていた。
なのに自分は、何を言いに行こうとしていたのだろう。
残れ、と言えるほどの言葉を、自分は持っていない。去るな、と引き留める根を、この土地に持っていない。
川の石に腰を下ろすと、冷たい夜気が膝に沁みた。
対岸の山の稜線が、暗い空に黒く溶けていた。西谷の夜は、誤魔化しを許さないように静かだった。
図面の中だけで生きてきた、と思った。
線と線のあいだに人の気配を描くことはできても、そこに自分は立っていなかった。
水音は、変わらなかった。
