夏の西谷は、緑が深すぎる。
宝塚市の北端、篠山街道沿いの集落を抜けると、杉と檜の森が急に牙を剥いてくる。桐島煌太は汗に濡れたシャツのまま、獣道とも呼べない斜面を登り続けていた。
なぜここへ来たのか、と問われれば、答えに詰まる。
部活動の崩壊。生徒たちの孤立。そして自分のサインで完結した退職届。東京の職員室に置いてきたはずの痛みが、足の裏から這い上がってくる。
記憶の中の父は、この山の煙の匂いが好きだった。
「炭焼きってのはな、煌太。火を殺して、火を生かす仕事や」
幼い自分の手を引きながら、父は確かそう言った。八歳の夏のことだ。
その言葉だけが、今の自分を動かしている。
杉林を抜けた瞬間、煌太は足を止めた。
奥の谷筋から、白い煙が真っすぐ立ち上っていた。
廃業寸前のはずじゃなかったのか。
集落へ引き返し、縁側で将棋を指していた古老に声をかけた。吉田翁と呼ばれる九十近い老人は、煌太の話を聞いた瞬間、手の駒を盤に落とした。
「あの煙は……二十年前に消えたはずじゃ」
しわがれた声が、夕暮れの空気を引き裂いた。
「消えた、とは」
「炭焼き師の森岡が死んだ夜から、あの窯は一度も火ぃ入れとらん。わしが見届けた」
翌朝、煌太は夜明けとともに山へ入った。
小屋はあった。窯もあった。
だが人の気配は、どこにもなかった。
代わりに窯の前には、昨夜焼き上がったとしか思えない黒炭が、整然と並べられていた。まだほのかに熱を帯びたまま。
煌太は膝をつき、その炭の一片を手に取った。
黒い。
これほど黒く、これほど熱いものが、この世にあったか。
西谷の夏が、静かに始まろうとしていた。
