土の声を聴く者 〜西谷 春霞の畑より〜 #25-1

長尾山の稜線が、冬の空に墨で引いたような線を描いていた。

柳沢冬馬は段々畑の端に立ち、荒れ果てた土を踏んだ。枯れ草が霜を纏い、踏むたびに乾いた音を立てた。

波豆川の流れが、遠く低く聞こえた。

「pH五・八、有機物含量は……」

呟きながら採取器を土に差し込む。数値が全てだ。この土に何が足りないか、何が過剰か。それさえ分かれば、感傷は要らない。

土のサンプルをビニール袋に収めようとした瞬間だった。

——帰って、きたの。

冬馬は顔を上げた。

誰もいない。枯れ野が風にゆれ、長尾山が黙って立っているだけだ。

「風だ」

声に出して言い聞かせた。子どもの頃から、こういうことがあった。土の近くにいると、誰かの声がする気がした。だから農学を選んだ。データで土を読めば、耳を傾けずに済む。

宿を借りた古民家は、波豆の集落の外れにあった。縁側に腰を下ろすと、ちょうど武庫川の上流に日が落ちるところだった。

橙色が、薄く、薄く、紫へ変わっていく。

「お茶でも」

家の主、八十近い老婆の声がした。

「ありがとうございます」

受け取った湯飲みは、両手に重かった。

夕暮れの中、冬馬は畑で感じた気配をもう一度思った。声ではなかった。きっと風だ。それとも自分の疲れか。

だが——と、胸の奥でかすかに何かが動いた。

あの土は、ひどく古い匂いがした。怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもない。ただ、待っているような。

西谷の夜が、静かに下りてきた。