長尾山の稜線が、冬の空に墨で引いたような線を描いていた。
柳沢冬馬は段々畑の端に立ち、荒れ果てた土を踏んだ。枯れ草が霜を纏い、踏むたびに乾いた音を立てた。
波豆川の流れが、遠く低く聞こえた。
「pH五・八、有機物含量は……」
呟きながら採取器を土に差し込む。数値が全てだ。この土に何が足りないか、何が過剰か。それさえ分かれば、感傷は要らない。
土のサンプルをビニール袋に収めようとした瞬間だった。
——帰って、きたの。
冬馬は顔を上げた。
誰もいない。枯れ野が風にゆれ、長尾山が黙って立っているだけだ。
「風だ」
声に出して言い聞かせた。子どもの頃から、こういうことがあった。土の近くにいると、誰かの声がする気がした。だから農学を選んだ。データで土を読めば、耳を傾けずに済む。
宿を借りた古民家は、波豆の集落の外れにあった。縁側に腰を下ろすと、ちょうど武庫川の上流に日が落ちるところだった。
橙色が、薄く、薄く、紫へ変わっていく。
「お茶でも」
家の主、八十近い老婆の声がした。
「ありがとうございます」
受け取った湯飲みは、両手に重かった。
夕暮れの中、冬馬は畑で感じた気配をもう一度思った。声ではなかった。きっと風だ。それとも自分の疲れか。
だが——と、胸の奥でかすかに何かが動いた。
あの土は、ひどく古い匂いがした。怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもない。ただ、待っているような。
西谷の夜が、静かに下りてきた。
