鍬は、思ったより重かった。
市造が脇で黙って見ている。冬馬が柄を両手で握り直すと、老人はただ一言言った。
「土を、切るんやない。持ち上げるんや」
言われた通りにすると、刃がすっと土に入った。
波豆川の音が、霧のなかから聞こえてくる。棚田の縁の荒れ地に、朝の光がようやく差し込み始めていた。
一時間も経つと、掌の皮が破れた。豆ができ、また潰れた。それでも鍬を置く気にならなかった。
土を返すたびに、温もりが伝わってくる。
体温などではない。もっと奥から来るもの。ゆっくりと、確かめるように、冬馬の掌に押し当てられてくる気配があった。
「……怖くない」
声に出して、自分で驚いた。
子どもの頃、畑に膝をついて土に触れるたびに、得体の知れない何かが手を引っ張ってくる気がした。それが怖くて、ずっと遠ざけてきた。
でも今感じるのは、恐怖ではなかった。
久しぶりに会う、何かに似ていた。
「知ってる感じがします」と冬馬は言った。
市造はしゃがんで、土を一掴み取った。それを丁寧に、また戻した。
「土はな、覚えてるんや。耕した人間を、全部」
その夜、冬馬は夢を見た。
西谷の山が、今より深い緑に覆われていた。棚田は幾重にも連なり、霧のなかに火が灯っている。
人の列が、畑を歩いていた。
みんな黙って、種を蒔いていた。老いた手、若い手、子どもの手。冬馬もその列に並び、気づけば種を握っていた。
誰も何も言わない。
それなのに、寂しくなかった。
目が覚めると夜明けで、窓の外に西谷の山が霞んでいた。掌の豆が、じんわりと熱かった。
