夜明けとともに、庄平は長靴を履いた。
「来るか」
それだけ言って、老人は歩き出した。誠司は黙ってあとを追った。
波豆川の支流に沿って細い畦道を登ると、棚田が広がった。石積みの段が幾重にも重なり、水を張った田が空の色を映している。朝霧が低く漂い、その上を山鳥の声が渡っていった。
草取りは地道な作業だった。腰を折り、泥に手を入れ、ひとつひとつ引き抜く。庄平は無言で、誠司も無言だった。
やがて誠司が口を開いた。
「村瀬は、俺のせいで死んだかもしれない」
庄平の手が止まった。
「五年前、俺は判断を誤った。それが村瀬の何かを壊した。あいつが最後の現場で無謀な踏み込みをしたのは——」
言葉が詰まった。
泥の匂いがした。田の水が、風に揺れた。
庄平はしばらくそのまま草を引き続けた。それから、顔を上げずに言った。
「村瀬さんは、あんたのことを何度も話しとった」
「……何を」
「信頼しとる、と言うとった。あいつのおかげで俺は刑事でいられる、と」
誠司は泥に手をつけたまま動けなかった。
「信じられません」
「わしも、嘘は言わん」
庄平の声は平らで、飾り気がなかった。だからこそ、それが胸に刺さった。
棚田を渡る風が来た。
誠司は顔を上げた。頬が乾いていくのがわかった。泥で汚れた手を握り締め、また草に伸ばした。
山は黙って、そこにあった。
