「絶対に後悔させないから」
健太はそう言って笑った。その笑顔を信じた自分が、今は少しだけ恨めしい。
助手席の窓から外を見ると、緑が視界いっぱいに広がっていた。棚田が山の斜面に沿って折り重なり、水面が夏の光を跳ね返している。場所は宝塚市の西谷地区。大阪から車で一時間もかからないはずなのに、そこはまるで別の時間が流れているみたいだった。
「なんでこんな山奥に、わざわざ泊まりに来るんだよ」
「うるさい。デザインの仕事ばっかしてないで、たまには土の匂いでも嗅いどけ」
健太のハンドルさばきはやけに堂に入っている。こいつ、下見でもしてきたのか。
車が細い農道を抜けると、古い母屋が見えてきた。手入れの行き届いた庭に、軒先から風鈴が揺れている。夏の風が、どこか懐かしい音を立てた。
「着いたぞ」
エンジンを切ると、蝉の声がどっと押し寄せてきた。
母屋の縁側に、人影があった。
地図を広げて、何かを確かめるように指でなぞっている女性だ。麦わら帽子を膝に置いて、こちらに気づいていない。
健太が「すみませーん」と声をかけると、彼女が顔を上げた。
その瞬間、悠の足が止まった。
長い睫毛。すっと通った鼻筋。少し意外そうに丸くなった目。
——知っている。
三年前、神戸の展示会場で、一度だけ言葉を交わした。名前も連絡先も聞けないまま、人混みの中に消えていった。その顔だ。
「長谷川……朱音、さん?」
声が、思ったより小さく出た。
彼女はゆっくりと立ち上がり、悠の顔を見て、一瞬だけ息を止めた。
「……覚えていて、くれたんですか」
風鈴が、またひとつ鳴った。
