朝の空気は、神戸とは全然ちがう。
悠は縁側に腰を下ろし、目の前に広がる棚田をぼんやりと眺めた。水面に映る青空が、風でゆっくりと揺れている。
庭の端では、地元の人たちが慣れた手つきで青竹を並べていた。二股に割った支柱を等間隔に立て、長い竹筒をその上に渡していく。流しそうめんの準備だ。
「悠ー、ぼーっとしてないで手伝えって」
健太に呼ばれ、腰を上げる。
そのとき、母屋の引き戸が開いた。朱音がノートとペンを持って出てきた。今日は麦わら帽子の代わりに、白いシャツの袖をまくっている。
「おはようございます」
「あ、おはよう……ございます」
思ったより素直に声が出た。昨日は名前を呼んだだけで頭が空白になったのに。
農家の中村さんから聞いた話では、彼女は農業雑誌のライターで、西谷の棚田農家を取材するために来ているらしい。地元の人間ではなかった。
それが、なぜかすこし、うれしかった。
流しそうめんが始まると、歓声が庭に広がった。子どもたちが竹筒の脇に陣取り、箸を構えて身を乗り出している。
気がつくと、悠は朱音の隣に立っていた。
「得意ですか、流しそうめん」と朱音が前を向いたまま言う。
「苦手です。たぶん」
竹筒の上流から、白い糸が滑ってきた。
悠は箸を動かした。が、そうめんはするりと逃げた。
「あ」
「惜しい」
朱音が小さく笑った。その横顔を見て、悠は三年前のことを思い出す。
展示会場の喧騒。人混みの向こうに消えた後ろ姿。
「あの、三年前に一度——」
そこへ、子どもの弾けるような笑い声が割り込んできた。
「そうめん、流れていったー!」
悠の言葉は、夏の空気に溶けた。
竹筒の先で、白いそうめんが川のように流れていく。
