健太に呼ばれたのは、ほんの一瞬だった。
「悠くん、こっちこっち! 花火始まるで!」
「ちょっと待て」と言おうとした。でも声に出る前に、腕を引かれていた。
人波が動いた。花火の音が夜空を裂いた。
気づいたとき、朱音の姿はなかった。
ベンチに残ったのは、食べかけのかき氷だけ。イチゴの赤が、灯りの中でにじんでいた。
翌朝、民泊の食卓は静かだった。
朱音の椅子が、空いていた。
「朱音ちゃんなら、今朝早うに出はったよ」
あさりさんが味噌汁を運びながら言った。「取材先が変わったみたいで、急いでたわ。これ、置いてったで」
テーブルの隅に、小さなメモ用紙が一枚あった。
西谷の棚田が、細い線で描かれていた。丁寧な筆跡で、田んぼの畦道まで描き込まれている。
その下に、たった七文字。
「また来ます。——朱音」
悠はしばらく、その紙を見つめた。
田所が横から覗き込んだ。「なんや、絵入りやん。几帳面な子やな」
何も言えなかった。
また来ます、という言葉は約束なのか、それとも社交辞令なのか。書いた本人にしか分からない。
でも。
悠は昨夜の声を思い出した。あの展覧会のこと、まだ覚えてるんです——。
三年間、麻緒のことを引きずっていると思っていた。あの別れが傷になっていると思っていた。
違った。
ずっと引きずっていたのは、後悔だ。踏み出せなかった、自分への後悔だ。
窓の外、武庫川の上流から吹いてくる風が、稲の穂をかすかに揺らしていた。
山は青く、空は高かった。
西谷の夏が、静かにそこにあった。
悠はメモ用紙を、そっと胸ポケットに入れた。
