君の笑い声が、ここにある 〜西谷の夏、流れる水のそばで〜 #20-6

健太に呼ばれたのは、ほんの一瞬だった。

「悠くん、こっちこっち! 花火始まるで!」

「ちょっと待て」と言おうとした。でも声に出る前に、腕を引かれていた。

人波が動いた。花火の音が夜空を裂いた。

気づいたとき、朱音の姿はなかった。

ベンチに残ったのは、食べかけのかき氷だけ。イチゴの赤が、灯りの中でにじんでいた。

翌朝、民泊の食卓は静かだった。

朱音の椅子が、空いていた。

「朱音ちゃんなら、今朝早うに出はったよ」

あさりさんが味噌汁を運びながら言った。「取材先が変わったみたいで、急いでたわ。これ、置いてったで」

テーブルの隅に、小さなメモ用紙が一枚あった。

西谷の棚田が、細い線で描かれていた。丁寧な筆跡で、田んぼの畦道まで描き込まれている。

その下に、たった七文字。

「また来ます。——朱音」

悠はしばらく、その紙を見つめた。

田所が横から覗き込んだ。「なんや、絵入りやん。几帳面な子やな」

何も言えなかった。

また来ます、という言葉は約束なのか、それとも社交辞令なのか。書いた本人にしか分からない。

でも。

悠は昨夜の声を思い出した。あの展覧会のこと、まだ覚えてるんです——。

三年間、麻緒のことを引きずっていると思っていた。あの別れが傷になっていると思っていた。

違った。

ずっと引きずっていたのは、後悔だ。踏み出せなかった、自分への後悔だ。

窓の外、武庫川の上流から吹いてくる風が、稲の穂をかすかに揺らしていた。

山は青く、空は高かった。

西谷の夏が、静かにそこにあった。

悠はメモ用紙を、そっと胸ポケットに入れた。