君の笑い声が、ここにある 〜西谷の夏、流れる水のそばで〜 #20-4

翌朝、朱音は一人で出かけようとしていた。

「取材で棚田まで行くんですけど」と彼女は言った。「道、わかります?」

「だいたいは」

「じゃあ案内してもらえますか。この辺の地図、あんまり正確じゃなくて」

頼まれたというより、引っ張られた感じだった。

畦道は細く、二人並ぶとどちらかが草に触れる。朱音はカメラを首から下げ、ときどき立ち止まって棚田を見渡した。

「綺麗だな」と彼女はつぶやいた。「水が空を映してる」

水を張った田んぼが、青い空をそのまま切り取っていた。

悠は黙って隣に立っていた。

しばらく歩いたところで、朱音が話し始めた。

「昔、神戸で展覧会に行ったことがあって」

足が止まった。

「グラフィックデザインの小さな展示で。道に迷ってたら、スタッフの人が会場まで連れてってくれたんです」

心臓が跳ねた。

あの日。あの展示会。悠もボランティアスタッフとして入っていた。

「どんな人でしたか」

声が出た。自分でも驚いた。

「背が高くて、あんまり喋らなかったけど、なんか落ち着く人で」朱音はカメラのレンズを拭きながら言った。「名前も聞かなかったし、もう会えないだろうなって思ってたんですけど」

続きが来なかった。

朱音は顔を上げて、棚田の向こうを見ていた。

聞けばいい。あのとき、俺でしたか、と。

でも声が出なかった。

もし違っていたら。もし彼女の記憶の中に、自分はいなかったら。

夕陽が棚田に落ちてきた。水面が橙色に染まり、畦道の影が長く伸びた。

「西谷って」朱音が静かに言った。「来てよかった場所だって思えますね」

悠は「そうですね」とだけ答えた。

三年前と同じ言葉が、また喉の奥に残った。