翌朝、朱音は一人で出かけようとしていた。
「取材で棚田まで行くんですけど」と彼女は言った。「道、わかります?」
「だいたいは」
「じゃあ案内してもらえますか。この辺の地図、あんまり正確じゃなくて」
頼まれたというより、引っ張られた感じだった。
畦道は細く、二人並ぶとどちらかが草に触れる。朱音はカメラを首から下げ、ときどき立ち止まって棚田を見渡した。
「綺麗だな」と彼女はつぶやいた。「水が空を映してる」
水を張った田んぼが、青い空をそのまま切り取っていた。
悠は黙って隣に立っていた。
しばらく歩いたところで、朱音が話し始めた。
「昔、神戸で展覧会に行ったことがあって」
足が止まった。
「グラフィックデザインの小さな展示で。道に迷ってたら、スタッフの人が会場まで連れてってくれたんです」
心臓が跳ねた。
あの日。あの展示会。悠もボランティアスタッフとして入っていた。
「どんな人でしたか」
声が出た。自分でも驚いた。
「背が高くて、あんまり喋らなかったけど、なんか落ち着く人で」朱音はカメラのレンズを拭きながら言った。「名前も聞かなかったし、もう会えないだろうなって思ってたんですけど」
続きが来なかった。
朱音は顔を上げて、棚田の向こうを見ていた。
聞けばいい。あのとき、俺でしたか、と。
でも声が出なかった。
もし違っていたら。もし彼女の記憶の中に、自分はいなかったら。
夕陽が棚田に落ちてきた。水面が橙色に染まり、畦道の影が長く伸びた。
「西谷って」朱音が静かに言った。「来てよかった場所だって思えますね」
悠は「そうですね」とだけ答えた。
三年前と同じ言葉が、また喉の奥に残った。
