土の声を聴く者 〜西谷 春霞の畑より〜 #25-5

鍬は、思ったより重かった。

市造が脇で黙って見ている。冬馬が柄を両手で握り直すと、老人はただ一言言った。

「土を、切るんやない。持ち上げるんや」

言われた通りにすると、刃がすっと土に入った。

波豆川の音が、霧のなかから聞こえてくる。棚田の縁の荒れ地に、朝の光がようやく差し込み始めていた。

一時間も経つと、掌の皮が破れた。豆ができ、また潰れた。それでも鍬を置く気にならなかった。

土を返すたびに、温もりが伝わってくる。

体温などではない。もっと奥から来るもの。ゆっくりと、確かめるように、冬馬の掌に押し当てられてくる気配があった。

「……怖くない」

声に出して、自分で驚いた。

子どもの頃、畑に膝をついて土に触れるたびに、得体の知れない何かが手を引っ張ってくる気がした。それが怖くて、ずっと遠ざけてきた。

でも今感じるのは、恐怖ではなかった。

久しぶりに会う、何かに似ていた。

「知ってる感じがします」と冬馬は言った。

市造はしゃがんで、土を一掴み取った。それを丁寧に、また戻した。

「土はな、覚えてるんや。耕した人間を、全部」

その夜、冬馬は夢を見た。

西谷の山が、今より深い緑に覆われていた。棚田は幾重にも連なり、霧のなかに火が灯っている。

人の列が、畑を歩いていた。

みんな黙って、種を蒔いていた。老いた手、若い手、子どもの手。冬馬もその列に並び、気づけば種を握っていた。

誰も何も言わない。

それなのに、寂しくなかった。

目が覚めると夜明けで、窓の外に西谷の山が霞んでいた。掌の豆が、じんわりと熱かった。