六月の終わり、蒼は大阪から荷物一つで西谷にやってきた。
リュックに詰め込んだのは着替えと文庫本、それから充電器。それだけで十分だと思った。どうせここには、たいしたものを持ち込む理由がない。
武田尾の駅を降りると、緑のにおいがした。
湿った土と、風に揺れる草の香り。大阪では嗅いだことのない、少し重くて、それでいてどこか懐かしいにおい。蒼は一度だけ深呼吸して、川沿いの道を歩き始めた。
祖父の家は、波豆川のほとりに建つ古い農家だった。
縁側に腰かけていた耕一じいちゃんは、蒼を見ても特に驚かなかった。「来たか」とだけ言って、麦茶を出してくれた。
「大学、ほんまに行かへんのか」
「うん」
「そうか」
それ以上は聞かれなかった。それが少しだけ、ありがたかった。
問題は翌朝だった。
「裏の畑、頼めるか」
耕一じいちゃんが差し出したのは、年季の入った鎌だった。
裏に回った蒼は、しばらく言葉をなくした。膝丈まで伸びた草が、畑だったはずの区画を完全に飲み込んでいる。西谷の夏の日差しが、容赦なくその上に降り注いでいた。
途方に暮れながら鎌を振り始めてしばらくしたとき、隣の敷地から声がかかった。
「あの、大丈夫ですか。なんか、すごい顔してる」
振り返ると、麦わら帽子の女の子が立っていた。同い年くらいだろうか。
「あ、隣の日向です。日向葵」
「……柴田蒼」
女の子——葵は、ぱっと顔をほころばせた。
「あおい、かぶってるね」
笑い方が、夏の光みたいだと思った。
蒼は少し面食らって、それから小さく笑った。こんな気持ちになれるとは、思っていなかった。
