春風の道標 〜西谷の丘にて〜 #8-2

翌日、敬太郎は再び西谷の丘を訪れていた。昨日の夕暮れとは違い、午前の陽射しが柔らかく土を照らしている。

「また来たんですか」

声をかけられて振り返ると、麦わら帽子を被った老人が立っていた。七十歳は過ぎているだろうか。日に焼けた顔に深い皺が刻まれているが、瞳は穏やかで温かい。

「はい。昨日、ここから夕日を見まして」

「そうでしたか。私は田中と申します。毎日この辺りを見回っているんです」

田中翁と名乗った老人は、敬太郎の隣のベンチに腰を下ろした。

「ダリアの世話をされているんですか」

「ええ、もう十五年になります。最初はほんの思いつきでしてね。でも今では、この丘が私の生きがいです」

翁は眼下の畑を見つめながら、静かに語る。

「若い頃は、何もかも急いでいました。早く結果が欲しくて、待つということができなかった」

敬太郎は胸の奥がざわめくのを感じた。

「でも球根は正直です。時が来れば必ず芽を出し、花を咲かせる。人間も同じではないでしょうか。焦っても、時を無視しては何も始まらない」

「時を待つ、ですか」

「そう。ただし、何もせずに待つのではありません。土を耕し、水をやり、愛情を注ぐ。そうして初めて、時は意味を持つのです」

翁の言葉は、敬太郎の胸に深く響いた。自分は焦るばかりで、本当に大切なことを見失っていたのかもしれない。

遠くで鶯が鳴いている。武庫川の清流が、変わらぬ調べで谷間を流れていく。

「明日もここに来ます」

敬太郎の声には、昨日までとは違う響きがあった。